多葉喜とその歴史

生まれ変わった 多葉喜のご紹介

「霊泉湧庭」として愛されてきた元料亭・多葉喜が生まれ変わりました。

多葉喜は、明治25(1892)年の創建から格式ある料亭として、地域の方々に親しまれてきました。それから大正・昭和・平成の4つの時代を超えて令和5年、宿泊施設とカフェ、ギャラリーを兼ね備え、越前地域を探索できる拠点として再生します。

完成イメージ図

多葉喜の歴史

越前市・武生は近郊を流れる日野川の副流の影響で各地で湧水し、古く古墳時代(300年代)から豊かな水に恵まれ栄えた土地です。
江戸時代末期まで現在の越前市役所付近に「府中城」があり、今「多葉喜」が建っている場所は、城を囲むお濠(ほり)の中でした。
その後、時代とともに濠を埋め立て整地され、水場はお清水不動尊とその横の大きな池を残すのみとなりました。
1892年(明治25年)に「多葉喜」はお清水不動尊の横に建てられ、夏場などは涼を得るために、隣接する池に浮かべた船の上で湧水で冷やした心太(ところてん)や白玉を食す催しをしたりして、当時から人気を博していました。
その後池も埋め立てられ、湧水は多葉喜の庭の池に移されました。水が美しく引かれた池泉式庭園を持つ「多葉喜」は、1階は大小の個室が、2階には100人以上を収容できる大広間があり、すべての部屋から庭を見る事ができる造りとなっており、食事に訪れる人たちから「霊泉湧庭」と言われ、目と心を潤したと言われています。

「霊泉湧庭」と書かれた入口上部の欄間額
昭和15年(1940年)当時の越前・武生の地図(武生市 大日本職業別明細図)
多葉喜で挙げられた結婚式の様子(1960年頃)

また当時は、こうした大がかりな施設は他にあまりなく、「多葉喜」が冠婚葬祭の催事を催す場として、更には政治的重要な会議や談合、密談なども交わされていた場所として、越前市・武生の歴史と政治と文化的な機能を持ち合わせ、さまざまな役割を担っていたと言われています。
「多葉喜」の名前の由来ですが、「多葉粉(タバコ)で財を成した二代目高野喜太郎」が建てたので、創建当初はそこから文字を引用しての「多葉喜」でしたが、時代を重ねていく中で「多くの喜びが葉となって溢れる場所」としての意味が付け加えられたと言われています。

創建以降「多葉喜」は主に明治・昭和の2つの時代に増築され、それぞれの時代の特徴が色濃く反映されています。格式が高い入母屋造りの玄関、そして自然木を取り込んだ扇面の開口部。さらに各部屋には網代天井や桜丸太の床柱、虫食いを生かした板欄間などさまざまな素材と形の組み合わせが目を楽しませてくれます。こうした意匠は当時担当した職人によって生み出されたものが多く、この料亭への思い入れや熱量を細部に至るまで強く感じられるものとなっています。 残念ながら「多葉喜」は2019年に料亭としての役目を終えましたが、それから3年後に宿泊施設を持ち合わせた越前市・武生の新たな拠点として生まれ変わることになります。

大正時代(1920年頃)に多葉喜の池の前での撮影
明治40年(1907年)の多葉喜

多葉喜再生プロジェクト

多葉喜再生プロジェクトは、100年以上も歴史を刻み、文化をはぐくんできたこの貴重な場を、地域だけでなく日本全体の重要な資産として、より多くの人に活用していただきたいという想いから、建築士を中心に地元ゆかりの人たちによって立ち上げられました。
プロジェクトの発端は、越前市出身で現在は東京を拠点に全国各地の商業施設や住宅の建築を手掛けてきた、一級建築士事務所代表の北畑栄が、現在の「多葉喜」の管理者である高野家(現・近藤家)から再生の提案を受けたことがきっかけでした。
先代主人が「多葉喜」復活を最後まで願っていた事を知るのと同時に、北畑自身も約30年前にも「多葉喜」の改修に携わっていた縁もあり、何か運命的なものを感じ「多葉喜再生プロジェクト」が始動しました。
始動はしたものの、解決しなくてはいけない問題が山積みで、実際の改修工事に取り掛かるまで2年近くの歳月が費やされました。
今回の改修では、柱や建具装飾などすでにあるものは最大限に生かし、宿泊や長期滞在の際にも快適に過ごせるように補修しています。明治から現代へ続く職人の技術、伝統、歴史を見て、触れて、感じていただけたらと思います。
1,300年以上の歴史を持つ越前市・武生の地で受け継がれる新しい拠点として、これからも「多葉喜」が皆さまに愛される場所となることを願って再生プロジェクトは今後も少しずつ進んでいきます。

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